「海兵隊員だった叔父の遺品整理をしていたら、マーシャル諸島の戦いで亡くなった日本兵の家族写真が出てきた。遺族に返却したい」という話が舞い込んできたのは、先月の半ばだった。
今月8日、米国ペンシルバニア州在住の依頼主Davidさん、福山万里子さんと初めてオンラインで会った。夜中と早朝の2回に分けて、お話をうかがった。毎日新聞社の竹内麻子記者が関心を持って取材をしてくださって、昨夜動画付きのオンライン記事が公開、今朝25日の全国紙朝刊にも大きく掲載された。
「77年前、米国に渡った5枚の写真 「日本の家族に返したい」」
5枚の写真は、とても綺麗な状態で保管されていた。
依頼主のDavidさんは、写真について話を聞いたことはなかった。
海兵隊員だった叔父のハリーさんは、1945年5月、沖縄戦で亡くなっている。25歳だった。
亡くなる一年前の1944年2月、マーシャル諸島のエニウェトク環礁で闘ったハリーさんは、戦地からお母さんに宛てた100通を超える手紙の中に、日本兵の写真を同封していた。
手紙に書かれた記述と時期から推測すると、エニウェトク環礁のエンチャビ島とパリー(日本名ではメリレン)島で亡くなった日本兵で、陸軍海上機動第一旅団、海軍第61警備隊分遣隊、 第952航空隊に所属していた可能性が高い。エンチャビ島での戦いでは、飛行場建設に携わった900人近い朝鮮人軍属も亡くなっている。
1948年からエニウェトク環礁では44回核実験が行われ、いくつかの島は消滅。一部の島に一部の住人は戻ったが、放射能への不安を抱えながら暮らしている。
今、Davidさんには二十歳になる甥がいる。
ハリーおじさんが亡くなった年齢に近い。戦争に行ってほしくないという思いがある。
「ハリーおじさんや亡くなった日本兵が生きて年を重ねていれば『違う国の人間と戦うより家の中で孫と口げんかしている方がよっぽどいい』と思えただろう。」
というDavidさんのことばが印象的だった。
Davidさんと私たちは、ハリーさんや日本兵の孫、ひ孫世代にあたる。
ハリーさんを、日本兵を、誰も知らない。
写真にうつる人たちのことも知らない。
写真を持ち主に返したいと思う。そのDavidさんの願いを叶えたいと思う人たちは、亡くなったハリーさんと、日本兵とのつながりは、何もない。それでも昨夜の記事の反響や、数日前に配信されたハフィントンポスト日本版記事へのリアクションの大きさから、記事を通してDavidさんの気持ちが通じたことがうかがえる。
【遺族を探しています】日本兵ゆかりの80年前の「謎写真」。アメリカから時空を超え持ち主を探す旅へ
写真の5枚は同じ人の持ち物か、何人かのものかはわからない。
でも、写真の裏に裏書きがあるかもしれないということで、佐藤冨五郎日記の赤外線観察で大変お世話になった、国立歴史民俗博物館の三上喜孝先生に裏書きがないかを見てもらった。
米国からわずか3日で届いた。
名前や日付、撮影地など、何かしら手がかりとなる情報があることを祈った。
しかし、残念ながら何も書かれていなかった。
アルバムの台紙から剥がしたと思われる跡があり「3枚は同じ台紙から剥がしたように見える」と三上先生はおっしゃっていた。(上3枚の写真)
その後、ハリーさんと同じ部隊に所属していた米海兵隊員が出版した本の中で、エンチャビ島で追い込まれた日本人将校が、最後は日本刀で闘ったことを知った。
上陸時は、楽園に見えたであろう島が、地獄に変わり果てた。米海兵隊員に刀一本で対峙した将校がいたことを、この5枚の写真に出会ったことで、私は知ることができた。
これから少しずつ、記録と記憶が少ないエニウェトクの戦いについて調べていきたいと思っている。
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