目覚めてすぐ、愛知県の音楽フェスの炎上を知る。
朝起きると必ず何かが燃えている。
画像を見ると数千人が密状態でモッシュしていたり、マスクをしていない人がかなり多かったり、イベント終了後の地面にペットボトルや酒類の空き缶が大量に散らばっていたり、2021年の地獄絵図と言えるものだった。
これまで批判されてきたどんなイベントより開き直っていて、度を超えている。新しい危険なフェーズを感じた。
オリンピックが「感染対策はしっかりやってます」と言えばなんでもOKのお手本になってしまった感は否めない。
今日1日で新しい変異株にまつわる3つの記事を目にした。最悪なことに、3つとも別々の変異種だ。
1、南アフリカと数カ国で変異株が確認された。今までの株より感染力が強くてワクチンを回避する可能性がある。
2、イギリスで行われた5万人規模の音楽フェスで約5000人感染、これにより変異種も出現した。
3、日本国内で新しいデルタ株の変異種が初確認された。海外渡航歴なしの市中感染で、変異が国内で起きた可能性が高いとみられる。
数年後、この日記を読み返し「このときはこんな風に怯えていたけど、変異種は意外と大丈夫だったね」と思うのか、「これが終わりの始まりであることを、このときの私はまだ知らない」と思うのか、どっちなんでしょう。
こんなに新型コロナのことばっかり書きたくありません。
あと、こんなに家に籠っていることも本当はあんまり書きたくなかった。
気持ちよく思わない人もいるだろう。
言及したくないし、知られたくもない。
でもこれまでもこれからもすべてがあやふやにされてしまうことがわかっている社会に生きていて、日記が、日記だけが今を未来に届ける肉声になるのであれば、書かねば、と思う。日記がなんなのかを知りたいし。
この、おそらく数人しか読んでいない公開交換日記というのははつくづく特殊な状況だ。
まず、自分しか読まない前提の日記と、いつか誰かが読むかもと思って書く日記とのあいだには大きな隔たりがある。そして、いつか誰かが読むかもと思って書くものと、今日だれかが読むかもと思って書くものの間にも差がある。日記なのか、ブログなのか。
本当に正直な記録にしたければクローズドがいちばんいいのかもしれない。しかしわずかにでも公開されている、ということがはっきりとモチベーションにつながっているし、すごい正直だけどある日突然書かなくなるかもしれない記録と、少し正直じゃないけど安定して書いていける記録だったら、後者のほうがまし。前者はいきなり0、無、の可能性もあり、比べることすらできない。
あと完全にクローズドな私の日記はたいてい闇の日記になる。いやだったこと、恥ずかしかったこと、忘れたいことを書いてしまい、結果忘れたいことから優先的に忘れられなくなるという負の装置にもなる。だからこれでいい。
でも本当に、人と会えてないこととか、書きたくないし知られたくない。
この1週間でまた2件、仕事のオファーを断った。今の私のプロジェクトをよく追ってくれていることがわかる新しい人と、7年ぶりに私を思い浮かべてくれた人に断りを入れるのは辛かった。
和田静香著『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた』を読む。p.104〜105ページに、
"2020年度は国債100兆円を起こした。もしこれでアベノマスクもGoTo事業も持続化給付金も雇用調整助成金もやめて100兆まるまる使ったら、全国民に毎月7万円、1年間支給できた"
ということが書いてあった。
ざっくり計算すぎる部分もあるかもしれないけれど、やろうと思えばこんなこともできたのか。ふーーーーーーん。
片岡義男著『言葉の人生』を読む。
「こころ、とはなにか。簡単に言うなら、精神作用を総合的にとらえ、なにからなにまで押し込んだ結果のものが、こころだ。(p.222)」
何から何まで押し込んだもの、という表現に、人間の雑な部分が出てて良い。
片岡さんが知らなかったと書いている慣用句に「こころ入れ」「こころしらい」「こころばえ」「こころばせ」などがあった。私も知らない。
日記は「こころ入れ」っぽい。なにからなにまで押し込んだ結果のものを入れるポケット。
調べたら、1.気をつけること。心づかい。2.心ぞえ。はからい。とあった。全然ちがう。
ジャンボピーマンで作った肉詰めがおいしかったのが今日の金メダル。