「コロナ感染の妊婦 搬送先見つからず自宅で早産 新生児死亡」のニュースをベッドの中で読む。悪夢であってほしいと思いながら、2021年8月19日(木)の朝を迎える。
千葉県内で、自宅療養という名の患者放置によって、救えたはずの命が失われた。
2020年3月、志村けんさんが亡くなった。小池百合子都知事がお悔やみのメッセージとして寄せたことばを思い出す。
コロナの危険性について、しっかりメッセージをみなさんに届けてくださったという「最後の功績も大変大きいものがある」。
これはメッセージでもことばでもない。政治家のことばが壊れているから、政治が機能するわけもない。昨日は、都内で親子3人全員感染し、自宅放置を余儀なくされた40代の母親が自宅で亡くなった。明日は我が身の日々をもう1年半も生きている。
8月は週末と平日の仕事終わりと、週2で今野書店に通っている。
このことが、思っている以上に、心の健康を保っている。
本屋のレジにソーシャルディスタンスをとって並ぶ人、人、人。ここは図書館かと思うほど、冊数を抱えて買い込む人が多い。中高生くらいの子が文庫本をたくさん抱えているのもよく見る。いまだに慣れず、在店中は始終感心してしまう。
そしてまた、書店員さんの接客がとても丁寧で優しい。このコミュニケーションや空間を求めに来店する人も多いのだろう。思えばうつ状態だった私が5年前に立ち寄った動機もそうだった。会社に行けなくても、学校に行けなくても、いていいんだ、と思わせてくれる書店。
補助金が出れば、本屋もこの状況下で閉じていただろう。でもこの国で安心して休むことはゆるされない。開けていてもギリギリの状態、の中での試行錯誤と従業員のサービス残業で成り立つ店がほとんどの現状に、馴れる必要はないはずなのに、馴れないと生きていけない。非情だ。ほんとうに非情。オリパラのための予算や医療体制確保が日常生活の改善に少しでも使うことができたらと悔やむなら、ひとつでもこれからできることをやるしかない。考えることをやめたアイヒマンたちが、この国の現在の政治を動かしているのだから。
夕寝から目覚めると「落胆と怒りの長崎」というタイトルのメールが、長崎保険医協会の本田孝也会長から届いている。広島の「黒い雨」訴訟で救済を検討すると菅首相は談話で明言したが、長崎は扱いが異なるよう。知らなかった。オンラインで署名をする。
「タリナイのSNSで、長崎の被爆体験者救済の署名を呼びかけるポストをしてもOKかな?」とみなみに確認メールをする。1分後に「もちろんだよー!」と返信が届く。この速さ。毎回心が震える。
うとうとモードから、パリッとモードでベランダに出る。
モロヘイヤとジャンボピーマンを収穫。
みなみのジャンボピーマンは平均16cm。こちらは9cm。
実が小さいうちから先端が黒ずんでしまうのはどうしてだろう。先週、肥料を撒いてから比較的状態が良くなってきた、ような気がする。
在宅勤務ができない職種の人と、できる人。
ワクチンを打った人と、打っていない/打てない/打たない人。
マスクをして、みんな同じような生活を強いられているように見えても、リスクと感じる行動と考え方のグラデーションはどんどん広がっている。ひとりひとりの選択の背後に横たわる、計り知れぬ葛藤や苦渋の決断を想像する力がますます必要になる。
家から一歩も出なかった。
ニュースに触れるたび、不安は増殖する一方。何もしていないのに疲弊した一日。
自身の行動とこれからを省みながら、この調子ではあっという間に年末だとふっくら半月を見上げて夜風にあたる。