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  • minami

ループ

野菜を育てていなかったら、いまごろ同じ1日を繰り返すループ小説の中に入り込んだ気分になっていたかもしれない。苗や葉や実の変化を逃すまいと何度も庭に出る。


もう1年半電車に乗っていないし、外食もしていない。自分で髪を切るのにも慣れた。収入は減ったけれど、家で仕事ができるのは本当に恵まれていることだから文句なんて言えない。1年半電車に乗ってないこともSNSにはなんとなく書けない。一般的にはかなり警戒しているように捉えられそうだけれど、自分のリスク管理に納得もしている。それでもしんどく感じてしまうときはある。特に、私がもう少しだけ楽観主義であれば今ごろ子どもにもっと様々な経験をさせてあげられたんじゃないかと考えてしまうときは。


離れて暮らす家族とも危機意識がかなり違っていて、考え方を尊重しつつも、さすがにそれはどうなのか、と思った時には意見を言ったりした。あのとき止めていれば、と思いたくない。口出しするたびに神経質な人というレッテルを貼られているのがわかる。身近な人と危機意識が異なるのはお互いにとってつらいことだ。

まるで以前の世の中と同じように自由に行動する人々を見て、うらやましいとは思わない。ただただ壁を感じてしまう(※しおりのことじゃないよ、とあるプール施設の大混雑の画像を見ただけ)。


「家族3人が全員感染、自宅療養中に40代の母親が死亡」というニュースを目にする。恐ろしすぎる。生きていくのが恐ろしい。私の目から見れば「対策さえすれば大丈夫」のフェーズはもう終わった。ワクチンを打っていてもまったく安心できない。東京全体、日本全体が巨大なロシアンルーレットになっている。


私も立場や環境が違えば違った行動を取っていたと思う。逆に言えば、日本でいまだにわりと気楽に構えている人でも、もし台湾やニュージーランドに住んでいれば数人の感染者でも「怖いね」と家に閉じこもったかもしれない。うちのリビングのテレビでは毎日中国のニュースが流れている。


久々に雨が上がったので午後から公園に行った。いくら外の世界が危険でも、お年寄りや小さな子どもにとって日々の運動は欠かせない。広くて誰もいない公園を探し、あとから1組でも来たらすぐに退散するスタイル。1度場所を変えたあと、運良く1時間ほど貸切状態で遊ぶことができた。雨水をまとった芝生が西日にきらめいて、それだけで泣きそうになる。世界はまだ美しいのか、どうなのか。誰もいない公園は気持ちいい。寂しい。



小川洋子さんの『物語の役割』を読む。


"私たちは日々受け入れられない現実を、

自分の心の形に合うように転換している。"


胸が張り裂けそうだけどこの現実を具に見てやろうという気持ちと、生きるための物語をいますぐ求める心が拮抗している。



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